――ねぇ、赤城くんって下の名前何て言うの?
――大地だよ。大きい地面で大地。
――ふぅん。私は真琴。まこって呼んでね!
「真琴」って名前は、綺麗な名前だなと思っていた。元気な彼女らしい名前。それと「まこ」って呼び名(あだ名、と言うべきか)もかわいいなと思った。
だからというわけじゃないけど、良く呼んでたと思う。「まこ」って。
いつから、いや、いつまでかな。
いつまで俺は君のこと、何も考えずに名前で呼んでいただろう。
「…乱れている」
目の前の惨状(?)に頭痛を憶えながら、俺は友達の一人を軽く睨んだ。全く、勉強会とはよく言ったものだ。どうせこんな事だろうとは思ったけど。
「勉強会だから集合!」と友達の家に(男友達だ。割と広めの部屋に一人暮らししているために皆がしょっちゅうここに集まる)呼び出されたが、この様子だと「勉強」をした雰囲気はカケラもない。ダイニングテーブルには食べ散らかした残骸、そしてそれぞれグラスを持ってソファやら床やらで管を巻いている。酒も入ってすっかり出来上がっているらしい。
「まぁた大地くんのお小言始まったよー」
「何だぁ?誰だよ大地呼んだの。風紀委員にはナイショだったのに」
「あ、そーなんだ?赤城って」
「ふーき委員じゃなくて、クラス委員だったでしょ、大地くんは」
やっぱりはば学時代からの友達が多い。だから、大学に入ってからも何となく位置的には皆の世話役みたいなところに収まっていた。
それにしても、女子もいるのにこの状況ってどうなんだ。来てみて正解だった。そして、上機嫌な声が俺の耳に届く。…俺を呼びだした張本人だ。
「大地くーん!こっちこっち!ぷよぷよしよう、ぷよぷよ!」
「…それぞれレポートまとめる為に集まっていると、俺にはそういう文のメールが来たんですがね?お琴さん?」
「それは後でやるの!とりあえずお鍋は食べたから、ぷよぷよして休憩してから!ね!」
「はいはい、後でね。…ていうか、酒くさいんだけど、ここ」
上着を脱ぎながらベランダの窓を半分開け、出しっぱなしの食器をとりあえず流しに持っていく。彼女以外にも女子はいたけど、中にはもう眠そうにしている子もいる。
「…あのさ、これはもしや皆泊まりな感じなの?全員寝る場所あるの?」
「お前は、着いて早々その心配かよ」
「男だけならともかく、女の子もいるからさ」
「大丈夫、女の子たちは寝室で寝てもらうから。お前はまことぷよぷよしてなさい」
「…勉強する気ないだろ…まぁ、こうなってるだろうとは思っていたけど」
「いや、鍋まではしてたんだけどさ。まぁ食ったらこの状態というわけで」
苦笑いする友達に肩を叩かれ、大地くん、早くー!と尚も俺を呼ぶ声に俺はため息をつくしかない。真琴はあんまりゲーム得意じゃないけれど、俺とは何でかやりたがる。
「よし!今日は絶対勝つからね?手加減ナシだからね、大地くん!」
「いいよ。…その代わり、俺が勝ったらお琴さんはお家に帰りなさい。送ってくから」
「えええ!何それ!?何で私だけ!?やだよぉ!」
「俺も適当な所で帰るし。…ほら、始まるよ」
そりゃ、彼女がここで泊まって帰ったとして、滅多な事などあるわけがない。ここにいる男友達は全員知っている奴だし、それぞれカノジョがいたり気になっている女の子がいたりして、それが真琴でない事はもう確認済みだ。中学からの付き合いからだから、男女の垣根なんてあってないようなものだ。
それでも、不安が全くないとは言い切れない。これは、単なる俺の勝手な、ほとんどわがままみたいな心配なのだけれど、彼女の事となるとどうしても過剰になってしまう。
「出た。大地くんの過保護」
「大地もウチに泊まればいーじゃん。帰んの?」
「そうだよー。大地くんも一緒だったらまこも安心だろうし」
「昔っから大地くん、まこの世話係だもんねー。ていうか、保護者?」
友人たちの勝手な言葉に、心の中でため息をついた。昔からの世話係ね。まったく、名誉なことだ。
好きでやってるわけじゃない。だけど、それ以外にどういう関係で傍にいればいいのかわからなくてそこに甘んじているだけだ。
「恋人」以外で傍にいるには、今の関係が一番都合が良い。
「わーっ!わーっ!ちょっとぉぉ大地くん!6連鎖とか!ひどい!ずるい!」
「手加減しないでってお琴さんが言ったんだよ?そもそもね、これ、お琴さん俺に勝った事ないでしょ」
「そうだけどぉ…、ねぇもう一回!次は勝てると思う!」
「…何度でもどうぞ」
送っていく、なんて言ったけれど。どうもこれは一緒に泊まり込みという事になりそうだなと、ゲーム画面を見ながら考える。
そもそも本人に全く帰る気がないし、俺は俺でこうして真琴といるのが楽しいのだ。
こうやって、目の前の楽しみにすぐ流されるところが良くないのかなぁ。
たぶん、真琴とは恋人同士にはなれないだろうと諦めている自分がいる。
それは、今のような友達関係が長すぎ、そして居心地が良すぎるというのもある。そもそも真琴は、たぶん俺の事をそういう風に好きだとは思っていないだろうし。
好きだと言ってしまって、今のように一緒にいられなくなることが、たまらなく怖い。意気地なしだと笑われてもいい。
こうして一緒にいられなくなるくらいなら、例え、まこに他に好きな奴が出来ても傍にいることを、俺は選ぶんじゃないだろうか。
「…どーでもいいけど、まこ弱すぎじゃない?一回も勝てないじゃん!」
「あれは大地が強いんだよ。まこには無理だって」
「それにしてもこの二人、一体何時間ゲームするつもり?もういい時間だけど?」
もうそろそろ、俺の72勝目、というところまできた。真琴は一度言い出したら聞かないところがあるから、もしかしたら百回やっても諦めないかもしれない。
さすがに、少し眠くなってきた。
「…むぅぅ、あともうちょっとなのに…」
「いい加減諦めたら?言っとくけど百回やっても二百回やってもお琴さんには負ける気しないよ?」
「………ねぇ、大地くんってさ。どうして私のこと、変な風に呼ぶの?」
「は?」
思わぬ質問に、一瞬コントローラーを取り落としそうになった。隣の彼女は目元を細めてテレビ画面の方を向いたままだ。
意外に近くに座ってたんだな、気付かなかった。
「だってさー、『お琴さん』とか『お嬢さん』とか、変な風に呼ぶでしょ。…考えたんだけれど、結構前からそんな風に呼ばれてる気がするの。なんで?」
「…そうだっけ?」
…やばい。今のところ、入れる列、間違えた。
だめだ、全然集中出来なくなってきた。
「そうだよ!昔はまこって呼んでたもん。別に嫌ってわけじゃないよ?でもさ、何か理由がある気がするんだよね」
「ないよ、理由なんて。…ほら、なんかさ、アレだよ。何か時代劇っぽくって面白がって呼んでたろ?あれがそのまま抜けないんだと思うよ」
「ええ〜?そうだっけ?…じゃあさ、名前で呼んでって言ったら、呼んでくれる?」
「……っ」
連鎖の規則に従って組み立てていたぷよぷよしていたものが、途中からまったく無秩序に積み上げられる。おまけに上からどんと石みたいなのが降ってきた。…ゲームオーバーだ。
「…ん?あれ?もしかして勝った?私、大地くんに勝てた?うそーーっ、やったぁぁ!!」
「卑怯だ…あんなの」
「え?何?何か言った?」
「……何でも。まさか、お琴さんにやられるとは」
「もうー!だからそれだってば!たまには普通に呼んでみてよ!」
「次、勝てたらね。…でもその前にちょっと寝かせて。さすがに眠い…」
「え?ちょっと、大地くん…!」
違う。これは睡魔に負けたんだ。心理的に攻められて負けたわけではない。
ゲームのコントローラーを放り投げて、その場に寝転んだ。何か声が聞こえた気がしたけど、聞こえないふりをする。
名前を意識したのはいつだったろう。何か、きっかけはよくわからない。でもある時、どうしてか無性に恥ずかしくなった。他の奴らと話している時は平気なのに、本人を目の前にするとダメなんだ。
付き合ってもないのに名前で呼んでいた、みたいな事を考え始めたせいかもしれない。中学とか高校の時って、そういう変なコダワリみたいなのがあった気がする。
とはいえ、周りの友達も真琴も僕も、友達同士で平気で名前で呼ぶのだから根拠の無いコダワリだけど。
(ん……)
どれくらい時間が経ったのか、床の上で寝ていたお陰で体が痛い。それでも、上から誰かが毛布を掛けてくれていた。ありがたいことだ。
電機は付けっぱなしだが、音はなく静かだった。みんな眠っているらしい。
(なんか…背中が重い…)
重く、そして温かい。不思議に思って体を反転させ、それから死ぬほど驚いた。それでも声を出さなかった自分を褒めてやりたい。
俺の背中にくっついて眠っていたのは真琴だった。どうして?女子は寝室で寝るって言ってなかったっけ?
動いたせいか、真琴もごそりと動いてうっとりと目を覚ました。
「ん…たぃちくん…?」
「…なんでここにいるの?」
それは無意識なんだろうし、単に寝ぼけているだけなんだろうけど、そんな声出さないでほしい。どうしようもなく情けなくはあるけど、俺だって男なんだから。
かすれた声が、鼓膜を震わす。
「あっち…ベッドもう空いてないって…」
「だからって…まぁ、仕方ないか。…ほら、ちゃんと毛布着てて。風邪ひくから」
「たいちくん、どこ行くのぉ…?」
「水飲みに行くだけ」
「そぉ…かえってきてね?」
「え?」
よく聞こえない、というよりも意味を測りかねて問い返すと、服のすそをきゅっと掴まれた。
「ちゃんと…もどってきてね…ぉやすみぃ」
「……うん」
そのまままた眠りに落ちた真琴を、俺はしばらく見ていた。…誓って何もするつもりなんてなかったけれど、ほんの少しだけ、彼女に顔を近づけた。
(君こそ)
君の方こそ、どこにも行かないでよ、お願いだから。俺から離れるなんてことは、絶対にないから。
(離れないでいて)
「…おやすみ、まこ」
それだけ言って、水を飲みに行くために立ち上がる。喉はカラカラに乾いていた。